『クロスアンドクライム』に感動した話し③ 要するに『クロスアンドクライム』は児童虐待の話でびっくりした
『クロスアンドクライム(葉月京・秋田書店)』に感動したブログつづき。
前回はこちらから →
一回目 鬱だけど『クロスアンドクライム』を読んで感動した件
私は『クロスアンドクライム』はすごい作品だと思う。しかしアマゾンレビューも、ブックメーターなどのサイトを読んでも、あまり芳しいレビューは出てこない。 個人的に、これは一重に、適切な層に届いていないだけだからだと思う。適切な層に届きさえすれば、もっと評価される作品ではないだろうか。 『クロスアンドクライム』を読んで、びっくりした点が2点ある。
びっくりした点その①
要するに『クロスアンドクライム』は児童虐待の話しだったのだ!
子供の頃に虐待と性的虐待を受けた主人公・ケイトがそれをどう乗り越えるかというハナシだった。さらには「虐待の連鎖をどうやって止めるか?」「虐待を受けた人間(被虐待者)が虐待する側(加虐待者)にならないためにはどうすればいいか?」という。
漫画であれ、小説であれ、虐待をテーマにしているものは少ない(もしあったら教えてほしい。すぐさま読みますから)。虐待をテーマに扱ってくれるのは、巨匠クラスの山岸涼子さんや萩尾望都さんくらいだ。
そんな難しいテーマに葉月京さんはこの作品で着手している。
びっくりした点その②
全12巻のうち、前半の6巻くらいは、わりと過激なセックスシーンが多く、それがこの作品の本当のテーマを覆い隠すカモフラージュになっている。
作者さんだってお仕事である以上、エロだってこなさなければならない。
「あ~はいはい、青年誌のお約束、ファンタジー・セックスシーンね。ノルマノルマ。」
と思いながらセックスシーンは流し読んでしまっていた*1
しかしシリーズ後半になって、実は前半のセックスシーンの数々が、ケイトがいかに人間としてギリギリの病んだところにいたかということを物語るためのものである、ということがわかる。てっきり性的ファンタジーのためだけに存在していると思っていた連載前半のセックスシーンの数々は、実は重大な意味と必要性のあるものだったのですね。
つまり、ケイトが子供の頃の被虐待者である立場から転じて、いかに恐ろしい加虐者になっていたことを表す描写だったのです。被虐待者の典型的な末路。男性・女性問わず懸想し、女性を性奴隷として扱い、犯罪まがいのことをし、恨みの感情を晴らすだけのために行動する……というクズっぷりだったケイト。
連載前半のケイトの混乱・迷走っぷり(特に木田氏が怒っていた男性の先輩のことを何年も想いつづけてたはずなのに急にその彼女である優香に鞍替えしてしまう点)も、性的被虐待者であることを考慮すれば、納得できなくはない、と私は思います。
虐待を受けて育った人間なんて、そんなもんだよ。私自身が虐待されて育ったからそう思うのですが。
心がいつも混乱してるし、自分の気持ちなんて、わかりません。というか、この世で一番信用ならないのは、自分の気持ち、くらいの勢いです。虐待を受けてこなかった人でも、そうなることがあると聞きますが、被虐待者においてはそれが何千倍も強いってだけです。
脱線した。
前半のセックスシーンの数々がただの商業的ノルマでない証拠に、シリーズ後半ではセックスシーンはほぼありません。連載が続くように性的描写を前半に沢山入れざるを得なかったとしても、作者はそれを作品にとって意義のあるかたちで入れている。
ファンタジーや欲望を満たすためだけの存在することが多いセックスシーンに関して、それを成し遂げられている作品はなかなかない。
以上が、私が『クロスアンドクライム』がもっと評価されてもいいのではないかと思う理由です。